自分らしく生きる為には何があるのか

薬物離脱との闘いの日々の中、人をサポートし続ける共依存という新しい生き方をしてる任侠女のつぶやき。

現在、個人でグループミーティング主催中。
民間団体目指して、クラウドファンドの利用を目指してます。

薬物依存性はやっぱり病気だった

同志社大学のイベントで、薬物治療に携わる先生の講演を拝聴する機会がありました。


薬物依存性=病気

刑務所に入っても治りません!

ただ、隔離されてるだけだ!


医師が言うのだから仕方ない( ^ω^ )


有名な美容整形外科医の高須院長は、フィリピンの大統領の薬物根絶の為の死刑に賛同して居る。


自分はヒロポンを薬局で買えた時代を知っていると声高にツイートして居るけれど、時代が違うのだ。


ヒロポンは戦中の時代の話。

現代は危険ドラックと言う、死に直結するものものある。

シャブや大麻なんか比べ物にならない。


シャブで交通事故より危険ドラックでの交通事故が多い日本。


高須先生は何故フィリピンの大統領を支持するのだろう。


世の中には沢山の依存性がある。

日本でも薬物の累犯が後を絶たない。

日本は根本的な薬物依存性の対策を考えて居ないクセにフィリピンの死刑対策を普通にメディアにあげる。

なんで日本のマスコミは自分の国に目を向けないのだろう。


日本で薬物専門治療を行う病院は数えるほどに少ない。

アディクトは「辞める方法を知りたい」のだ。

私は虐待児童だった

子供の頃の楽しい家族の思い出はひとつもない。


父親は家飲みアル中で、ウイスキーを麦茶の様に呑み酔っては暴力や小学校低学年に到底書けない漢字を書けと無理強いしては、お前は馬鹿だと真冬に外に裸足で出されバケツの水をかけられた。


母親もそんな父親の不満を私に暴力で解消する人。


助けてくれる大人は祖母だけだった。

同居はしてなかったけど、唯一の理解者だった。


全てを忘れたい。

ただそれだけだった。


高校は、家から1番遠い所に行くと決めた。

家に帰っても恐怖しか無かったから。

少しでも長い間、家に帰らないで済む所に行きたかった。


この頃から1人で繁華街をうろつき始めた。

群の中に居るのも嫌だったから1人。

信じる物は自分だけだった。

薬物アディクトを認めたら、自分が変わる

10代で薬物に出会い、20代30代とどっぷりとハマってしまった。


30代は今の旦那と出会い、夫婦で数百万を薬物に使ってしまった私。

私は炙りはした事が無い。

自分で注射する事が出来ない(笑)

全て人任せの薬物人生だった。

腕を差出して、注射してもらう人間。


さて、どうやって私が薬物から離脱したか?


旦那が使用中に泡を吹いてひきつけを起こしたからかなぁ。

本気で2人で警察に出頭しようとその時旦那に言った様に思う。

自分と旦那を薬物依存性を救う為にはそれしかないと思った。


でも、私達夫婦は違う離脱方法を選んだ。

旦那は自分の携帯の番号を変え、売人との縁を切った。


よく幻覚幻聴が起きると言われる薬物だけど、私にはそれが1度も無い。

クスリの切れ目にとてつも無い虚脱感だけに襲われた。

旦那は切れ目にイライラ度が沸点に到達しては暴れた。


そんな薬物依存性との闘いは現在進行形。


薬物依存性は治らないが「回復」する事が出来る病気なのだ。